初めに
この文章は私が初めて書いた小説になります。
今、見ると、拙いところがありますがこのときにしかできなかった内容となっております。
本文
家出女、愛を知る
「真っ当に社会で働くことにも才能の有無がある」
これが私の4年間を費やして出した答えだ。だから、私は会社を辞めた。
家に帰ると、私は父と母を前にして、
「仕事辞めてきたから」
とだけ言い残して2階にある自分の部屋に入る。階下から父の怒鳴り声が聞こえてくる。あれは強者の雄叫びだ。弱者である私には恐らく効きすぎるくらいの文句を言ってくるのだろう。しかし、私は大変気分が高揚している。何と言っても会社を、あの給料しか私に与えない所を辞めてきたのだ。今の私には怖いものなどなかった。
こんこんこんと部屋のドアがノックされる。このノックの仕方は母だ。
私は下唇を前にむーっと出すと、
「どうぞ」
母を迎え入れる。ゆったりとした動作で入ってくる母は、大変おどおどとしていて、見た瞬間に父から何か伝言を託されたのだと悟った。下唇を出したまま母に「なんですか」と投げやりに聞く。すると、母は
「次はあるのかってお父さんが」
唇を人差し指で触りながら聞いてくる。母はいつもそうだ。言いたくない、聞きたくないことを言葉に発するとき、唇に手を当てる。
「ないよ」
「そう」
ただ一言残すと、部屋をさっさと出て行った。
(またやってしまった)
もう27歳になるのに思春期のような子供の態度が抜けない。仕事でもそのような態度が出てしまうので、直属の上司によく注意されていた。
「お前はまたそんな態度を取って……俺だからまだこの説教だけで済んでいるけどな、他の人だったら何されるか分かんないぞ」
ギロリと私を睨む上司。私は詰まらないと下唇を突き出そうとして寸でのところで止めた。「へーい」とだけ言って席に戻る。
仕事を辞めた理由は仕事内容以外のことが億劫だったからだ。人間関係なんて特に最悪で、同期が上司などに媚びへつらっているのを私は気色が悪いという風な目で見ていた。仕事内容は自分でじっくりと考えることが多く楽しかった。この点だけは会社に恵まれていると思った。しかし、人事部から、「今年からジョブローテーションをする予定です」と通達された時に私は辞める決心をした。
仕事を辞めてから一週間後、会社から離職票が届き、私はハローワークへ行った。そして、その帰りに昼間から開いている飲み屋に入る。
(平日の昼間から飲む酒最高!)
私は無職を謳歌していた。
退職金は4年間きっちりと働いたので、しばらく実家で伸び伸びと暮らしていけるほどは入った。就職活動はするが、あまり急いでいなかった。しかし― 。
「知人に事務を募集している所があったぞ。こっちは少し遠いが……」
酒をたんまり浴びた私の前に放り出される求人の数々。
父が胡坐をかいて腕組みをしている。母は遠くの方から私たちのことを見ている。
「聞いているのか。家でダラダラするなら、何か資格の勉強をしろ」
父は目の前にある求人の紙をとんとんと指で叩く。
私は開いた口が塞がらなかった。頭もフワフワとしていて何も考えられない。だが、床に置かれている紙の内容をちらりと確認をして、眉を釣り上げる。
(私が事務? 私が接客業? ありえない)
私はふーっと長い息を吐くと、呼び止める父を後にして自分の部屋に向かう。頭の中はグツグツ沸騰しそうな程、怒りで沸いている。部屋のドアに自分の怒りを込め、全力で閉める。ばたんっと大きな音を立て、部屋全体が揺れた気がした。
(家にいるのが駄目なら)
私はクローゼットを開けると、隅っこの方にぽつんと置いてあるキャリーケースを引きずりだして、怒りに任せるがまま、床に落ちている服をぽいぽいとケースに入れる。必要な物は着替えだけだ。服を5着と下着を7セット入れ、ぎゅうぎゅうと押し込みながらケースを閉める。
そして、私は家出した。
白い息を吐くと、深い灰色の空へ吸い込まれていくように消えた。
ガッラガラロと歪な音を出しながら転がるキャリーケーズを引きながら、私は見知らぬ土地にいた。
(ここはどこなんだろう)
周りを見渡しても、杉が多い山と白い雪が覆う平面ばかりで家も店もない。歩き続けて20分くらい経っただろうか。私の息のみが生を感じるものだった。静かだ。ざくざくと私の足音だけ聞こえる。このように静かな場所は幼い頃に訪れた長野の森の中くらいしか知らない。私は誰かいないかと思って、
「おーい」
叫んでみた。耳を澄ますが誰からも、何からも反応がなかった。
また歩き始める。すると、先ほどまでスムーズに転がっていたケースのタイヤが動かなくなった。私は思いっきりケースを引っ張る。
「わっ」
一切動かないキャリーケースに負けて、私は反動で後ろに勢いよく飛んだ。その時、膝からぴきっと音がするのを聞いた気がする。尻もちをついた。手を着くと冷たかった。下を見ると、雪原の中だ。土の上ではタイヤが上手く転がる訳がない。私は急にケースのタイヤが動かなくなった理由を悟ってため息を吐く。
私はパンパンと手を叩いて、付着していた泥と雪だった液体を落とす。そして、立とうと思い、膝に手をかけるとジンッという鋭い痛みが走る。
(さっきの音ってまさか)
私はそろりと膝を見る。ワイドパンツの上からでは膝がどのような状態か分からないが、とりあえず良くない状態であることは何となく察せられる。私は優しく膝を摩る。今度は痛みを感じなかった。安心してまた立とうとすると、じくじくとした痛みと膝を動かしたときに微かな違和感があった。ゆっくりと時間をかけて立ち上がり、膝を軽く動かしてみる。やはりかくっとしたぎこちない動きになる。
私は空を見上げる。冬独特の厚い灰色の雲が広がっている。
(雪、降るんかな)
自分が住んでいる場所では滅多に見ない雪。ここは一体どこなのだろうか。東北まで来てしまったのだろうか。
考え込んでいると、突然、プーップップーとけたたましいクラクションの音が聞こえる。
私は驚いて音がした方へ向くと、そこには軽トラックが止まっていた。軽トラックを見たままじっとしていると、運転席のドアが開き、中から暗い茶色の髪を後ろにひとつに結んでいる女性が出てきた。歳は見た目からは分からなかった。
「何してんの? そこ畑だよ」
私はキョロキョロと辺りを見回す。なるほど、だから土なのか。
他人の土地に踏み入っていたことを詫び、急いで女性の元へ向かおうとする。しかし、キャリーケースは動かないし、膝は怪我をしているので、キャリーケースを胸に抱き、怪我をしている膝を少し曲げてケンケンをして歩く。
その様子を見た女性は私のところへ身軽に飛んで来た。
「大丈夫? 怪我してるん?」
頷くと、そうかと女性が呟く。
「乗って。ウチまで行って診てみよう」
キャリーケースを私からひったくると、すたすたと軽トラックへ向かって歩く。私は膝を引きずりながら女性の後を追って行った。
軽トラックの荷台へケースを仕舞うと、女性はよいしょと言いながら運転席へ収まる。私も助手席に回って拙い動きで椅子に座る。膝がカクンと折れた。私がシートベルトを装着するのを待って、軽トラックは静かに走り出した。
「膝はどんな感じなん?」
「動かすときに違和感があります」
「痛みは?」
「じんじんと熱を持っているような」
「うーん、膝を直で診ないと分からないね」
法定速度をきっちりと守りながら軽トラックは坂を下っていく。
私は窓の外を眺める。山の斜面ばかりだった景色は街中のごちゃごちゃとしたものに変わって行った。
「ここはどこなんですか?」
「ん? ここは秩父だよ」
「秩父⁉」
素っ頓狂な声を上げてしまった。
私はあそこの畑に、家から電車とバスと徒歩で辿り着いた。電車はとりあえず乗ったという風でどこに行こうとか決めていなかった。それよりも家から遠くへ行きたい気持ちでいっぱいだった。電車が大きな駅に着く。私はその駅で降りると、今度は停留所に止まっていた、どこ行きかも分からないバスに乗り込んだ。そして、バスが何もない開けた場所に出ると、私はそこで降車ボタンを押した。そこからは当て所なく歩いた。気が付いたら、すっ転んだあの畑にいたのである。
まさか、同じ埼玉県内を移動しただけとは思わなかった。電車に乗っている感覚では、他の県や東京に出ていてもおかしくなかったのに。
「あなたはどこから来たん?」
そういえば、女性の喋り方は、「の」が「ん」になっている。よく聞くと埼玉の言葉だ。私はとんだ徒労だと盛大にため息を吐く。
「私は……県北から」
「そう、旅行?」
その言葉に私は何も返せなかった。私は家出少女だ。いや、もう少女という歳ではなかったけれども、家から飛び出してきた身なので事情を話せない。
「気分、転換に」
言葉に詰まりながらやっと一言返せた。女性は特に私の言い方を気にすることはなく、そう、とだけ言う。私はそれが有難かった。
車は走っている内に、とても狭い路地に入る。周りを見れば塀や屋根が見えるので住宅街だろうか。女性は慣れたものだと言うかのように狭い路地をスピードを保ったまま進む。私はあまり舗装されていないガタガタと揺れる道と車のスピードが怖くなり、車のドアの上のバーを必死に握る。
ある一軒の家の前に辿り着くと軽トラックをバックさせる。所定の位置についたのか、女性は車のエンジンを切った。
「はい、到着」
軽トラックのドアを開けて女性はさっさと降りてしまう。私もシートベルトを外して扉を開けると、思っていたよりも狭く、人一人がやっと通れるくらいのドアの隙間しか開かなかった。
「ごめんね。狭くて。降りられる?」
ケースを荷台から取り出しながら聞いてくる。私は怪我をしている膝に力を入れないよう、慎重に降りるとドアの隙間を通って外に出た。女性はそんな私を見ると、ひとつ頷いてくるりと方向を変える。その後を伴いていくと、ごく普通の茶色い玄関に辿り着く。上を見ると、このドアと同じく明るい茶色の屋根と白い壁がある。大きさは一般的な一軒家と同じか。
ガシャンという派手な音で私の意識は前方に戻る。
「入って」
「お邪魔します」
私はお辞儀をして中に入る。玄関は至って質素で、下駄箱以外に何もなかった。玄関に靴一つも出ていなかった。
(他の家族の方は外出しているのかな)
そういえば、と今日が火曜日、つまり平日であることを失念していた。家に誰もいなくても不思議ではない。
女性はキャリーケースを上がり框に置くと、靴を脱いで廊下の奥へと去って行った。私は膝に気を付けながらスニーカーを脱ごうと座る。白と緑のラインが入ったスニーカーは泥で大分汚れていた。気になって、キャリーケースのタイヤも観察する。黒いタイヤはスニーカーほど汚れが目立たないが、きっと汚れているに違いない。
私が汚れを気にしていると、女性が濡れた布巾を持って現れた。
「あれ、まだ靴脱いでなかったん? もしかして、膝が痛い?」
布巾でキャリーケースをごしごしと拭く。ちらりと見えた布巾は茶色く汚れている。倒したせいで横面も汚れていたらしい。私は申し訳ない気持ちになり、靴をさっさと脱ぐ。
「さあ、次は膝だよ」
女性は私へ手を差し出す。私は小さくお礼を言いながら、その手を取って立ち上がる。女性の力は同じ女とは思えない程、強かった。立ち上がると、背が同じ高さなので、自然と女性と目が合う。
女性の目は先ほど魅せた力以上に強さを持っていた。
私は不思議と、この女性は信じてもいい人だと感じる。確信はないが、それ程までに女性の目は説得力や現実に対する答えを持っているようだ。それに比べて私はどうだ。ただ、仕事が嫌だと逃げ出してきて、今こうして女性のお世話になっている。いい歳して情けない。自分の未だ残る子供の部分をとても恥じた。
「どうしたん?」
「いえ、何でもないです」
「そっか。じゃあ、行こうか」
私の手をそっと放す。私は、つと女性の手を追いかける。しかし、女性は廊下の右側にある部屋へ入って行く。一人取り残された。置いて行かれるなんて嫌だ。また子供のような我儘を持って、女性の元へ急ぎ足で向かった。
部屋に入ると、そこはリビングルームのようだ。長いソファが一脚と、ローテーブル、テレビがある。装飾品は古びた大きな時計のみで、その時計の重厚感に私は驚く。古びた印象を持つが、長い年月を自分のものにしたかのような深い深い朽葉色をしていて、美しい。私は前職の癖から、その時計をまじまじと熟視してしまった。
「そんなにその時計が気になる?」
「あっ、いえ、勝手に見てすみません」
「その時計は父が知人から貰ったものなの」
「そうですか。とても、良い造りの時計だと思います」
「分かるん?」
「ええ、まあ……」
女性はふーんと私をじっと見つめると、急にパッと明るい顔になり、「まあ、座りなよ」と私にソファを勧める。私がゆっくりと腰をかけると、女性は箱をローテーブルに置く。その箱にはぴっちりと整頓された薬剤や湿布、絆創膏などが入っていた。
私の前に女性が正座する。
「どっちの膝が駄目なんだっけ?」
私は大人しく怪我をした方の膝をワイドパンツを捲って見せる。女性はふむと考え込むと、失礼と短く言って私の膝をそっと撫でる。痛みは全く感じられない。むしろ、手がくすぐったい。
「あなた、名前は?」
触診をしながら私に質問を開始した。私はどこまでこの女性に話したら分からず、
「正田です」
苗字だけ答えた。
「下は?」
しかし、女性は許してはくれなかった。私は少し返答に困って、
「由美です」
正直に答えた。
「そう、由美さん。私は浅見(あざみ)貴子。よろしくね」
私の目をまっすぐに見る。私はうんと頷く。
「あなた、今日泊まるところあるん?」
「……これから決めようと思っていました」
何も決めていなかった。今更になって、あの時、あの何もない土地で浅見さんに拾われて良かったと思う。未知の土地で自暴自棄のようなことをするなんて命の危険を孕んでいる。冬の秩父など、盆地のため冷え込み、気温が氷点下になることもあるというのに。
「改めて、ありがとうございます」
事の重大さに気が付いて私は素直に頭を下げる。浅見さんは手を振って、「いいのいいの」と言う。
浅見さんの振った手が私の膝に当たった。
「いっ!」
じーんと響く痛みに私は悶える。浅見さんはごめんと何度も謝った。
「とりあえず、何も外からじゃ分からないわね。明日どうなっているかだけど」
私の膝を解放してから浅見さんは結論を出した。
「心配だし、今日、ウチに泊まっていく? 明日酷くなるようなら、医者に連れていくから」
「いえ、そこまでお世話になる訳には行きません」
丁重にお断りして、私は辞そうと腰を上げる。膝のじんじんとした熱を持った痛みが私に怪我の具合を知覚させる。私はどうにか立つと、脚を引きずって玄関に向かう。
「やっぱり、泊まっていきなよ」
浅見さんが後ろから声をかける。
「そんな脚じゃ、満足に歩けないでしょ」
「でも、そんな迷惑かけるのは」
「迷惑なんかじゃない」
はっきり強い口調で彼女が言う。その言い方は芯が通っていて、自立したひとりの人間のものだったので、私はふっと肩から力を抜く。
「本当にいいんですか」
「いいんだよ」
浅見さんはにっと笑う。私は眉を八の字にして笑う。
キャリーケースの他にリュックサックを持ってきていた私はふと気になって、スマートフォンを取り出す。中を見ると、何の連絡もない。私は気付かれないようにため息を吐くと、スマートフォンの電源を切った。
「いいん?」
何を、と思い顔を上げる。彼女は扉に背を預けてこちらを見ている。
「誰かに連絡しなくて」
私は合点がいくと、いいんですとスマートフォンをまたリュックサックに仕舞った。
キャリーケースは玄関から空き部屋に移動させる。そして、浅見さんが使えそうな布団を押し入れから引っ張り出す。布団を畳の上に置くと、この家独特の匂いを凝縮したような濃い匂いが私の鼻に届く。
「ごめんね。匂い気になるでしょ。今からでも干せないかな。ああ、でももう夕暮れか」
「いえ、そちらで大丈夫です」
そう? と目で聞いてくる。私は頷くと、布団を見る。北はどちらの方角だろうか。後ろを見ると開け放たれた障子があり、その向こうは廊下と窓だ。窓の外側の景色を見て、自分たちの方へ木の影が伸びていることが分かった。今は夕暮れ時と言っていたから、廊下に頭を向けて寝ていれば北枕は回避できるだろう。
私たちはまたリビングルームに戻る。ソファに座ると、今日の朝から今までの疲れがどっと現れる。私は無礼だと思っていたながらも背もたれにぐったりともたれかかることを止められなかった。
浅見さんはリビングルームに一緒に入ってきた筈だが、今は姿がない。
遠くの方でがちゃがちゃと音がする。私は目だけをそちらに向け音を聞いていた。足音が近付いてくる。そして、彼女がひょっこりと顔だけ私に見せ、
「お酒呑める?」
手に持った瓶をこちらに見せつけるようにフリフリと振っている。私は思わず体を起こす。彼女が持っているのは、秩父で造られているウィスキーだった。最近では一般流通にも乗るようになったが、前までは手に入れるのに中々苦労をした逸品である。私は餌を目の前に突き出された犬のような反応で、前のめりになって息を荒くする。
「の、呑めます!」
今日一番の大きな声が出た。浅見さんははっはっと派手な豪快さで笑うと、
「じゃあ、夕飯の準備をするから待ってて」
また姿を消した。
(私は手伝いをするべきだろうか。でも、他の人の家だからな)
大学在学時も、社会人になってからも、友達の家に行ったことがない。高校生の頃は近くの友達の家へ訪れたが、夕飯を一緒に用意することなどなかった。だから、私は今、体験したことのない場面に遭遇している。一般的な人はこの場合どうするのだろう。
私はやらないよりやることの方が大事だと思ったので、重い体をゆっくりと起こして立ち上がる。
リビングルームを出て、右手を見やる。廊下の奥にぽっかりとした穴が開いている。あそこが台所の入口か。私はずりずりと脚を引きずって、そこへ辿り着くと中をこそりと覗く。一般家庭によくあるシンクと、物を置く場所と、コンロが3つ付いた台所だった。今、浅見さんはコンロの前に立ちフライパンで何かを炒めている。
「あの」
私が小さく声をかけると、彼女がこちらに気が付く。火を止めると、
「どうしたん?」
フライパンの中身を皿の上に移す。私は何か手伝えることはないかと聞く。
「そんなのいいって。座ってなよ」
浅見さんは自身の後ろ側にあるダイニングテーブルを指さす。私は「はあ」と返事か分からない間抜けな声を出して、言われた通り大人しくダイニングテーブルに座る。
ピロリロリンと何かが鳴る。浅見さんは電子レンジから皿を2つ取り出す。
「あと10分くらい待って」
取り出した皿を台所の上に置く。
私は人が料理をしているのを大変久しぶりに見たので、興味深く彼女の動きを観察する。冷蔵庫から彼女が取り出したのはチーズだった。チーズをレンジから取り出した皿の上にぱらぱらと乗せる。そして、それをオーブンの中に入れてタイマーをセットした。
浅見さんは「よし」と短く呟くと、私の前に酒瓶をドンッと勢いよく置く。目の前に先ほどのウィスキー、日本酒一升瓶、ワインが並ぶ。
「全部秩父のものだよ」
歯を見せながら得意気に胸を張る浅見さん。私はひとりの自立した人間でありながら、たまに無邪気さを現す彼女にすっかり好意を持って接していた。
私は今まで人間関係など億劫だと思って生きてきた。だから、必要最低限の交流しかしないので、友達も少なかったし、知り合いも多くはなかった。会社員になってから、否が応でも人間と接しなければならなかった。私はそこにストレスを感じて、段々と仕事自体が嫌になった。同期は皆一緒に食事に行く中、私は断って黙々と仕事に取り組む。すると、3年もしない内に同期と私の評価で決定的な差が出来た。他の者たちは上司に好意的に評価してもらっていたが、私は「仕事はできるが、意志の疎通が苦手。コミュニケーション能力に問題あり」という評価がなされた。
(仕事が出来ていればそれでいいじゃん)
私は上司との二者面談をしながら、その思いで頭の中がいっぱいだった。
ピピッと音が聞こえて私は意識を現実に戻した。浅見さんは手にミトンを装着して、皿を注意深く取り出している。私の元に乳製品の温かい香りが届く。これはグラタンか。急にお腹が空いてきた気がした。
「さあ、出来たよ」
ダイニングテーブルの上に、白菜と挽肉の炒め物とグラタンが置かれる。
「ごめんね、質素で」
「いえ、そんなことは」
私は両手を合わせて、「いただきます」をする。浅見さんは「召し上がれ」と言いながら、ウィスキーの瓶に手を伸ばす。
「ウィスキーにする? どんな飲み方がいい?」
「じゃあ、ロックで」
「渋いねえ」
浅見さんは立ち上がると、食器棚からウィスキーグラスを2つ取り出す。冷蔵庫の氷棚を開けてガラガラと氷をグラスに放り込む。
「こんな氷しかなくて」
席に戻ると、ウィスキーの栓を開け、トクトクとウィスキーをグラスに注ぐ。
「いえ、充分です」
私は恐縮しながら、そのグラスを受け取る。
(これがあのウィスキーか)
緊張しながら一口、舌を軽く濡らすように舐める。
「! 美味しいです。何と言えばいいんだろう。奥深いけど雑味がない」
「口に合って良かった」
浅見さんはグイとグラスを傾ける。このウィスキーをあんなに大胆に呑めるのか。私はちびちびと呑もうとしていた自分が小さく思えた。
ウィスキーのグラスは置いて、フォークに持ち返る。つやつやと光る餡を纏った白菜を口に入れると、餡のしょっぱさととろけるような食感の白菜が混ざり合い、とてもお酒が欲しくなる。私はグラスをグイと傾ける。とろみがウィスキーのとろみととろけ合い、絶妙なマリアージュを奏でる。これはこれで美味しいが、この料理にはウィスキーロックではなく、ハイボールの方が合うと考える。
ふと前方を見ると、浅見さんがロンググラスに氷と炭酸水を入れていた。そして、ウィスキーを適量入れて、私に差し出す。浅見さんも同じ気持ちだったのだろう。私は嬉しくて、頬を赤らめながらお礼を言った。
白菜の炒め物とハイボールを堪能した後はグラタンだ。グラタンを食べようとしたら、浅見さんが立ち上がる。私はふーふーとグラタンに息を吹きかけ冷ましながら彼女を見る。彼女はワイングラスを持ってきた。
「やっぱり、グラタンにはコレね」
白ワインの瓶を持つ。
「私もいいですか」
「もちろん」
彼女はワインを注いだグラスを私に渡す。香りを嗅いでみる。そんなに香りが引き立つワインではなかった。凄く謙虚なワインだ。私はグラタンを口に入れてホワイトソースとチーズの濃厚さを舌に乗せるとワインを煽る。香りは無い分、料理を邪魔しないワインとチーズが見事に合わさってワイン独特の嫌な酸味を消していた。
(この味はお酒が好きじゃないと出せない)
私は「これもチーズと合うんだよね」と言いながら日本酒をお猪口に注いでいる浅見さんを見て尊敬の念を深めた。
皿を綺麗に洗って拭く。これが今の私の仕事だ。黙々と使った食器類を洗っては、水分を綺麗に拭う。カチリと皿と皿が当たる音が心地良い。しかし、食器を傷付けてはいけない。私は細心の注意を払いながら、皿を重ねる。重ねた皿を浅見さんが食器棚へ片付ける。我ながら良い連携ができていると思う。やっぱり私はこうして黙々と自分の課題をこなしていくことに向いているのだ。
使ったもの全てを食器棚へ戻すと、私たちはリビングルームへ移動した。
「はい、どうぞ」
浅見さんが湯呑みを差し出す。私はそれを受け取り、
「ありがとうございます」
湯呑みの中を眺める。緑茶の細かい茶葉が沈んでいくのが見て取れた。
浅見さんが隣に座ってお茶を啜っている。私も同じようにお茶を飲んでいると、ふとあることに気が付いた。
「そういえば、他のご家族の方は私のこと迷惑に思わないでしょうか?」
「いないよ」
私はえ? と浅見さんを見ると、湯呑みに口を当てたまま彼女は笑う。
「この家には私一人」
「そうなんですか。立ち入ったことを聞いてすみませんでした」
私は気まずくなって、少し冷めたお茶を口に含む。緑茶の渋い味に集中をしていると、浅見さんは湯呑みをローテーブルに置く。
「じゃあ、立ち入ったこと聞いたお返しに私も立ち入ったこと聞いていい?」
「……私が答えられるものであれば」
そして、身構える。どのような質問が来るのだろうか。じっとりと手に汗が滲む。
「なんで家出してきたん?」
私は、ああと心ここにあらずな返事をした。なんだそのことか。すっかり忘れていた。この家に何故お世話になることになったのか。
「自分の話になってしまいますが、いいんですか」
「私はそれを聞きたいんだよ」
浅見さんはソファに深く座って背もたれに全体重を預ける。私の話を長時間聞く態勢だ。私はお茶をぐっと飲み干すと、事情聴取の供述を始める。
「仕事が嫌で家から出てきたんです。家にいると、仕事しろってうるさいから」
「仕事がそんなに嫌なん?」
「いえ、仕事自体は別にいいのですが、仕事に付随することが嫌いなんです」
「付随? ふーん、例えば?」
「人間関係です」
「でも、人間、仕事に限らず、人間関係は必ず付いてくるものだよ」
私は少しむっと唇を前に出す。
「分かっています。だから、必要最低限の関係は持ちます。でも、仕事って最低限だと自分を正当に評価してもらえないんだと気付かされました。だから、仕事が嫌になったんです。純粋に私を評価しないから」
「ふーん、正当に、ね。人間が評価を下すんだから、不平等は仕方ないことなんじゃないの」
「それが嫌なんです」
「じゃあ、機械やAIに評価してもらう方がいい?」
私はそうですねと断言した。純粋に私がした仕事だけを評価するなら、それが一番平等だろう。人間の印象による評価など、何の価値もない。
「純粋な評価だけを求めるなら、私は止めないけど、見えない努力というものもあるって知った方がいいと思うな」
「見える努力だけ評価した方がいいと思います」
「それはまだ考えが浅いな」
浅見さんの言葉に私は自分の中の完璧主義が姿を現す。私は浅見さんに不満だと顔いっぱいに表情を出して見る。浅見さんははっはっと先ほどとは異なり、豪快さはなく、乾いた笑い方をした。
「由美さん、あなたはまだ子供のようだね。純粋さを失った子供だよ」
「では、浅見さんは仕事について、どう思っているんですか」
「そうだなあ」
彼女はもう空になった湯呑みを持つと、中身がないのに残っている茶葉をぐるぐると回すように湯呑みを左右に振る。浅見さんは湯呑みの中ではなく、湯呑みの外観を観察しているようだ。
「私にとって仕事は、繋がりを保つための手段、かな」
「繋がりを?」
「そう」
湯呑みをローテーブルに再度置くと、腕を組む。
「まあ、これは私の持論だけど、仕事は生きる上で必要なことを繋ぎとめるためにするものなの」
「はあ、生計とかですか」
「うん、もちろんそれが一番だよ。ただ、それだけじゃなくて、技術とか人間関係とか、命とか、さ」
私はどきりとした。彼女が「命」と言ったときの声の難さ。今までの豪快で強い印象を持つ彼女から出るとは思えない、繊細な声だった。私は強い彼女に何があったのか、純粋に興味を惹かれた。これは彼女の触れてはいけない部分だと思う。でも、気になり始めたら止まらない私は、疑問を声に出した。
「何故、命を繋ぎとめるために仕事をするんですか」
「周りに見てもらうためだよ」
周りにみてもらう? 私は首を捻る。彼女は、そうだなあと呟く。
「今ってSNSとかで簡単に生存確認できるじゃん? でも、それって本人の上辺だけ見てるの。だから、例え元気ですと言っていても、本当に元気か分からない訳」
「はあ」
SNSをあまり詳しくない気の抜けた反応をしてしまった。
「でも、それがどう仕事と繋がるんですか?」
「仕事って、ダイレクトに自分の状態が反映されるんだよ。例えば、いつもは10できる仕事が7しかできなかった。その場合、考えられるのって、自分に異変が起こっている内的要因、何か邪魔が入ったなどの他からの要因でしょ? 外的要因は自分でも分かるけど、内的要因って自分じゃ分からないことが多いの。だから、他の人に仕事を見てもらって、自分がどこがおかしかったのか、客観的に判断してもらうんだよ。それが命を救うの」
「自分の奥深くを仕事によって、他の人に知らせるってことですか」
「そう」
「でも、仕事がバリバリ出来て、オーバーワークで壊れていく人もいるじゃないですか」
「だから、それを見てもらうために仕事をするのさ」
「それって本末転倒していませんか?」
仕事をすることで、オーバーワークを知らせる? 私はまた首を傾げる。浅見さんは、うーんと唸ると、
「私の父は陶芸家だった。この湯呑みは父が作ったものさ。毎日毎日窯の前でコツコツと作品を作り続けた。それなりに評価されていたんだよ。ただ、ある時、陶芸家仲間に言われたんだ。『変わってしまった』って。父はその言葉を聞いて、自分に何かが起こったのだと初めて知った。原因はうつだったよ。陶芸は心が映し出されるから、分かる人には父の変化が分かったんだね」
私は納得がいった。そう言われると、仕事によって自分を客観的に判断してもらうのも合理的だ。
「だから、人間関係を大事にするんですか」
浅見さんは私の言葉に、パンと拳を手の平に打ちつけた。
「そう! その通り。自分の変化をより敏感に伝えられる人をたくさん作っておくんだよ」
「確かに……」
私は今までの人生で、課題や仕事さえ出来ればいいと考えていた。しかし、浅見さんの話を聞いて、何故人間関係を大切にするのかが分かった、ような気がした。
でも、私にはやっぱり人間関係は面倒くさいものだとも思ったし、仕事は嫌だなと改めて感じた。私は感じたことを伝えると、浅見さんは豪快な一笑いをする。
「由美さんは本当お子様だね」
私の頭をわしゃわしゃと撫でる。撫でるというよりかき混ぜているようだった。
「やめてください」
私の髪の毛はあちこちに跳ね、ぼさぼさに爆発していた。窓の反射を利用して、手櫛で直していると、浅見さんは
「嫌なことを嫌だと言えるのは立派なことだけど、でも、逃げてばかりじゃ何の解決にもならないよ」
そして、大人は我慢もしなくちゃと続けた。
私は我慢と口の中で呟く。我慢ならしてきた。社会生活の人間関係全てが嫌だった。でも、最低限は人間と関わったのだから逃げてはいない。これ以上、私に何を望むと言うのだ。
「では、私はどうすればいいと仰るのですか。人間に真正面からぶつかれと?」
「そうだよ。今、あなたは私に対してそれが出来ているじゃん」
「それは……浅見さんだから、かもしれないです」
「私だから? だったら、その調子でぶつかれる人を探しなよ。今日見つかったじゃん」
浅見さんは両手を広げ、ここにいることを示す。
私は私で不思議なのだ。何故、こう浅見さんにはモノが言えるのか。彼女の性格が関係しているのだろうか。
ソファの上で体育座りになる。膝の動きに違和感があった。自分の膝を抱き込むと、分からないと頭を振る。
「一人で完全に仕事ができればいいのにな」
声に出していた。浅見さんはふっと鼻で笑う。
「そんな仕事ないよ」
現実を突きつける。
「どうしたら、人間関係を友好的に持てるんですか」
「それは自分で探すしかないけど、まずは人間を好きになることかな」
「人間を……」
人類愛をこの人は説いているのか。
私は頭の中でぼんやりと好きを考える。好きなんて感情を人に対して持ったことがないかもしれない。この人は気が合うなとか、一緒にいて楽だなと思う人と交流してきた。
もしかしたら、私の言う人間関係は初めから高い位で考えていたのかもしれない。
もっと単純な一歩が欲しくて浅見さんに助けを求める。
「人間を好きになれる方法はなんですか」
「それも自分で探すしかないね。そうしないと、他人の定義の好きを自分に言い聞かすことになるから、それは本当の好きじゃないよ」
「難しいんですね」
「簡単さ」
浅見さんはよっこいしょとソファから腰を上げると、
「お風呂沸かしてくるね」
リビングルームを出て行った。
秩父の夜は冷える。
しんとした静けさの中、私は布団を頭まで被る。足元には浅見さんが用意してくれた湯たんぽがある。おかげで温かさを保っていられる。
寝返りを打ち、天井を見つめる。薄暗い中、ほんのりと木目が見える。木目のある一つの筋を目で追う。筋は木の切り替えが起こるところで終わっている。
(そういえば、あの時計。時計も木の滑らかな線が美しかったな)
私はもう一度、時計をじっくりと見たくなって布団をそろりと抜け出す。できるだけ音を立てないようにリビングルームへ入る。そして、時計の前まで行き、まじまじと観察をする。
側面の木がぬくもりを感じるようだ。それでいて、漆で塗られているのか、重みを感じる。時計の高さは私の頭ひとつ分ほど低い。時刻は4時を指している。
(おかしいな。まだ深夜の筈だけど)
よくよく時計を見ると秒針がピクリとも動いていない。この時計は時を刻んでいないのだ。
この時計のどこかが壊れているのか。つい癖で時計を直そうとして、扉に手をかける。
「どうしたん」
声がして、心臓がビクンと飛び跳ねる。カチリと音がして、部屋が明るくなる。声がした方に目を向けると、扉に浅見さんがもたれ掛かっている。
私は見つかったときの言い訳を考えていなくて、
「あー、この時計が気になって」
素直に事を話す。浅見さんはうんうんと頭を上下に振る。
「直せる?」
修理の依頼をする。
「何が壊れているのか、見てみないと分からないですけど」
「そう。じゃあ、お願いしていい? 明日、工具を持ってくるから」
「はい」
「じゃ、おやすみ」
手をバイバイと振りながら、ふらりと彼女は立ち去った。
「その時計は私の父の親友のものだったの」
私が時計を診ている間、浅見さんは横のソファに座って、そんな話を切り出した。
「父はとても頑固で中々友達がいなかったんだけど、その人とは凄く馬が合ってね。父にはその人しか信頼できる人がいなかった」
私は手を動かしながら、「そうですか」とだけ答えて、相手の出方を窺う。
「でも、その親友の人が亡くなったんだ。それからだった。父の作品が変わってしまったのは」
「あれ? でも、お父さんの作品が変わったのは内的要因と言っていませんでしたか。それって外的要因で変わってしまったんじゃ」
「あなたは本当お父さんみたいなことを言う人ね。自分では気付いていないだろうけど、親友が亡くなったことで父は心に大きなダメージを負った。だから、それが作品に投影された。それから、父は元には戻れなくなった。どんどん目に見えて病んでいったのよ。作品はもうぐちゃぐちゃ。陶芸家として成り立たなくなった。でも、親友が褒めてくれたからと陶芸は続けたの。その人の言ったことが父の世界だったんだよ」
私は思わず耳を塞ぎたくなった。だって、それはあまりにも自分に似ていたから。
今、こうして時計を直しながら、私は自分の仕事はコレしかないと思っている。やはり機械を触るのが好きなのだ。私にはコレしかない。
そして、昨日から私は浅見さんの言葉に感銘を受けては、自分の考えを正している。つい昨日会ったばかりの人の言葉に私は動かされているのだ。
「父は『人間関係など』と言って世間を嫌っていたけど、親友と仕事だけは好きだった。もちろん、私たち家族のことも愛してはいたんだろうけど、父の意見を変えられるのは、その人だけだった」
浅見さんはふーっと深い息を吐く。私は何と言ったら分からず、ただ時計の部品を外してはひとつひとつを丁寧に点検するしかなかった。
「私は最初、あなたのことを子供だと思った。実際、考え方が甘かったけど、それ以上に父に似ていた。だから、私はあなたにおせっかいを焼いているのかもしれない」
「私は感謝していますよ」
事実だった。
「だって、浅見さんが仕事が何かってことを聞かせてくれなかったら、私は一生、仕事から逃げるしかなった。でも、今こうして浅見さんに作業を見られながらする仕事も悪くないと思っています」
「そう」
「はい……あ、歯車がサビついていてガチガチに固まっていますね。これは買い換えないと」
浅見さんに問題の秒針の歯車を渡すと、「あらほんとだ」と声を上げる。
「もう随分と古いもののようだから」
「お父さんの親友のものだと仰いましたよね」
「そう。親友が産まれた日にその祖父が買ってきたものなんだって」
「そんな歌ありましたね」
私がそう言うと、浅見さんは大きな声で歌い始めた。私はその場にしゃがんで、そのリサイタルを聞いていた。大きく繊細な歌声はリビングルームに響いて反響して、大ホールの演奏会に来ているような心地になった。
膝の痛みは消えていた。
「私は人間を好きになれるでしょうか」
不安そうに私は浅見さんを見る。
「なれるよ。だって、私のこと好きでしょ?」
「それとこれとは、また違いますよ」
私はクスリと笑う。浅見さんは胸を逸らし、はっはっと威勢よく笑う。秩父駅にその大きな笑い声がよく響いた。
「やば。駅だってことすっかり忘れてたわ」
慌てて口を抑える浅見さん。私はまた小さく笑うと、駅の時刻表を見る。
「そろそろですね。本当にお世話になりました」
深くお辞儀をする。心から想った言葉だ。
「いいのよ。いつでも遊びにおいで」
私の肩をバンバンと叩く。その勢いが心地よかった。私が頭を直すと、目の前には初日に私が惹かれた強い目がある。真剣な眼差しに私は心が彼女の元へ帰りそうになる。
「時計を直してくれてありがとう」
「いえ、私にできることなんて、あれくらいしか」
「いいえ、あなただから出来たのよ。しっかりね」
「はい」
私は彼女から目を離すように、背後にある改札へ向かった。
秩父鉄道のホームには私の他には10人ほど電車を待っている人がいる。私は空を見上げる。今日は雲ひとつない快晴で、冬独特の青のグラデーションが淡い空だった。
やがて、ホームに電車が滑り込む。私はキャリーケースを持ち上げて乗り込む。車内は金曜日の昼間とあってか、随分と空いていた。椅子に座ろうとして、窓の方を見ると、ちらと浅見さんの姿が見えた。彼女は手を左右に大きく振っていた。私は小さく振り返すと、椅子にぼすんと座る。
電車はタタと走り始めた。電車に揺られながら私は窓の外を見る、もう浅見さんどころか秩父駅も見えなかった。
私はこれから社会でやっていけるだろうか。帰ったら、人間を好きになる練習をしよう。まずは、隣人を愛せよ。父と母を好きになるところから始めよう。
長い道のりになりそうだ。私は目を閉じた。
(あ、そうだ)
私はリュックサックからスマートフォンを取り出す。火曜日に電源を切ってから、今まで一切入れていなかった。電源ボタンを押すと、通知欄がずらーっと表示される。
「うわ」
着信19件、メッセージ58件、全て親からだ。
(前途多難だな)
私は両親に、「今から帰ります」とだけメッセージを送り、また電源を落とした。メッセージを送っただけ、自分は成長したと思う。だから、もう少しだけ私を成長させてくれたあの人に心を寄せていたかった。
私は、初めて人を好きになった。
完
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